東京地方裁判所 平成2年(合わ)217号 判決 1995年9月29日
主文
被告人は無罪。
理由
第一 本件公訴事実
本件公訴事実は、「被告人は、N及びMほか数名と共謀の上、昭和六三年九月二一日午後七時ころ、千葉市祐光一丁目二八番一一号アパート『フラット祐光』前路上において、帰宅途中の千葉県収用委員会会長○○に対し、同人の身体を路上に押さえつけ、所携の鉄パイプ等でその両腕、両下腿部、顔面等を殴打する暴行を加えて同人の反抗を抑圧した上、同人所有の現金合計約四六万一五五〇円及び訟廷日誌等一五点在中の手提げ鞄一個(時価合計約二〇〇〇円相当)を強取し、その際、右暴行により、同人に入院加療三七九日間及び通院加療約六か月を要し、両膝軽度可動域制限、左足関節可動域制限等の後遺症を伴う両下腿骨開放性骨折、左橈骨骨折、右肘部挫創等の傷害を負わせたものである。」というものである。
第二 検察官の立証と本件の争点
一 <証拠等略>によれば、昭和六三年九月二一日午後七時ころ、千葉市祐光一丁目二八番一一号アパート「フラット祐光」前路上において、当時千葉県収用委員会会長の職にあった弁護士○○が、ヘルメットを着用して顔面を隠した数名の者らに襲われ、仰向けに両上下肢を路上に押さえつけられ、鉄パイプ等でその両腕、両下腿部、顔面等を殴打する等の暴行を加えられた上、同人所有の現金合計約四六万一五五〇円及び訟廷日誌等在中の手提げ鞄一個を奪われたこと、右暴行により、同人が前記公訴事実記載のとおりの後遺症を伴う両下腿骨開放性骨折、左橈骨骨折、右肘部挫創等の傷害を負わされたとの強盗傷人の被害を受けた事実が認められる。
二 右犯行につき、実行行為者の一人として有罪判決(確定済)を受けたMは、第五回及び第六回公判廷に証人として召喚されたが、宣誓及び証言を拒否したため、東京地方裁判所平成元年合(わ)第二一四号等事件(Mに対する強盗傷人、窃盗被告事件)の第一回公判調書謄本、同裁判所平成元年合(わ)第二七八号等事件(Nに対する強盗傷人、窃盗被告事件)の第六回ないし第八回公判調書謄本中のMの各供述部分、同人の検察官に対する供述調書六通、同謄本六通が証拠として取調べられた。これらの証拠において、Mは、本件強盗傷人の事実につき、概略以下の趣旨の供述をしている。
1 まずMが、中核派革命軍に加わり、対人闘争に加わるようになった経緯等は以下のとおりである。
自分は、昭和六一年三月から中核派の非公然活動に従事していたが、昭和六二年七月湘南のホテルでの会議で、同派の××から軍に移るようにと言われ、同年八月茨城県結城市内でAとほか一名の上級の指導者と会った際、自分の所属は、対人闘争部隊(通称ハト)であると告げられ、Aから自分のキャップとなるNを紹介された。
その後班員のアジトに泊まっていたが、同年九月上旬、Nの指示を受けて横須賀に行き、角田治と言う偽名で横須賀市内の会社に型枠大工として勤めるようになった。
同年一二月中旬、入間市内の国民宿舎「グリーンロッジ」にN、Dらと集まって班会議が開かれた際、近々革マルをやるから参加してくれと言われ、同月一五日ころ、Nの指示で青梅線河辺駅付近の喫茶店「ピア」で初めて丙と会い、丙と共にトレーニングウエアと靴を買った後、A、丙、Yと一緒に奥多摩町の民宿「鉢の木」に宿泊した。その際、Aから「今度やるのは新川崎駅近くの国鉄アパートに住んでいるトタンだ。」と言われてその写真を見せられた上、Aがキャップとなり、相手の身体を押さえつけ、Xは相手にタックルをし、Eは運転手、Yは電話線の切断、丙と自分は相手の足を押さえ所持品を奪うという役割分担の話があり、翌一六日、付近の愛宕神社境内で右役割分担に基づく訓練を実施し、再度「鉢の木」に泊まって、図上演習をするなどした。
次いで、同月一七日から、A、丙らと共に横浜線中山駅付近の「よねや旅館」に三、四泊し、その間、Aの指示で、丙と一緒に待機に利用するための喫茶店、逃走のためのバス時刻表の調査を行い、さらに、その後、丙と二人で横浜市鶴見区生麦付近の旅館で一泊した上、丙と田園都市線青葉台駅付近で帽子、手袋、サングラス等を買い、その後、E、Aらと合流し、計七名で港北ニュータウンの造成地内で一泊した。
その翌日も襲撃現場付近の駐車場等で待機していたが、攻撃相手が現れず、同月二五日、相模線上溝駅付近の喫茶店「リッチ館」に丙と共に待機していたところ、Aから任務解除を伝えられた。
2 次に、本件強盗傷人事件の経緯は次のとおりである。
自分は、昭和六三年八月中旬、Nの呼び出しを受け、鬼怒川河川敷で野宿をしたり、茨城県潮来町の「芝田旅館」で一泊するなどして、同月二二日ころ、犬吠崎付近の君ケ浜キャンプ場に行き、革命軍のA、丙ら数名と合流し、同所で、A、F、丙、女性一名らと会議するなどして一、二泊した後、革命軍のメンバー数名と九十九里浜海岸の民宿「ひらはま荘」で一泊した。
同月二五日、千葉県成東町の小松海岸で、Aから、横須賀のDにフィルムを届け、現像、焼き付けを行うよう指示され、翌二六日、横須賀のアジトに帰り、DにAの指示を伝えた。同月三〇日、Nから写真を持って来るように指示され、前記上溝駅付近の忠実屋駐車場でAと落ち合い、写真を渡したところ、同人から、明日から仕事をしてもらうと言われた。翌三一日、前記忠実屋駐車場で甲と会い、その際、同人から「今度現場で指揮をとる、よろしく。今から一緒に行ってもらう。」と告げられ、同人と千葉県野田市に行き、旅館「水明荘」に泊まった。この時、同人から写真の人物は千葉県土地収用委員会の○○会長であるとの話があった。
翌九月一日、九十九里の長生村の白子海岸で、女性一名及び乙、丙と合流し、テニス合宿の名目で民宿「小松荘」に泊まったが、その夜、乙の主催で会議が開かれ、ターゲットは○○会長であると言われ、翌日から乙と共に二泊三日で同会長の動静を観察するようにとの話があった。
翌二日から同月四日まで、乙、戊、Eらと交代で千葉市内のアパートに潜んで○○会長を見張り、同月五日、茂原に行き、A、丙、Gと合流して、大原町の民宿に泊まり、翌六日、再度千葉市内のアパートに戻り、戊と交代して○○会長の動静を観察したが、同月八日、迎えに来た丙から、観察打ち切りを告げられ、同人と共に茂原市内に移動した後、七名で勝浦市付近の民宿に泊まり、観察結果を報告するなどした。
同月一〇日、一一日は、丙と共に、千葉県九十九里町片貝海岸の民宿「銀砂屋」に泊まりながら、東金市付近で、襲撃日に昼食をとるレストランを探し、一二日には丙と九十九里町の喫茶店に出向いて甲と会い、現場訓練を行うのに適当なホテルを探すよう指示され、当夜は丙と茨城県波崎町の民宿に泊まり、翌日は、それぞれ潮来周辺のホテルを調査し、その後、丙と合流して鹿島町内の旅館「富士屋」に宿泊した。
翌一四日、丙と潮来町に移動し、甲、A、丁と合流した後、二班に別れ、自分は、甲、Gと共に潮来町の旅館に泊まった。翌一五日、潮来町の簡易保険センターに甲、丙、丁、Gらと偽名で宿泊したが、その夜甲を中心とした会議が開かれ、「攻撃は五点セットでやる。甲は現場キャップで、会長に体当たりをする。丙は会長の手足を押さえ、逃走の際に必要があれば釘を撒く。丁は手足、顔面を鉄パイプで殴打する。Gは手足を押さえ、ハンマーで足を殴打する。自分は鞄等の強奪と見張りを行う。」という役割分担が告げられた。
翌一六日、茨城県大野村の海岸に行き、A、甲、丙、丁、G、E、戊と自分とで十数回にわたって襲撃の訓練を行い、攻撃手順を打合せした上、前日と同じセンターに宿泊した。翌一七日、甲と同県神栖町に行き、合流した戊と二人で逃走に使用するスーツ等を購入し、その夜は銚子市内の外川漁協近くの民宿「文治」にA、E、丙らと数名で宿泊し、翌一八日、A、丙、戊らと前記君ケ浜近くの松林で訓練を行い、再度A、甲、丙、丁、Gらと「文治」に宿泊したが、当夜の会議で決行日は二一日とされ、マスク、軍手、手袋、ヘルメット、風呂敷等が配付された。翌一九日、これらの品をワゴン車に積み込み、丙、Gと銚子市内に行き、波崎町の民宿「魚忠」に宿泊し、翌二〇日、甲、丙、Gと四人で西海鹿島駅付近の「金正旅館」に宿泊したが、その夜A、E、戊、丁が合流し、Aの指揮下で最後の作戦会議が開かれ、身分を偽るための偽造の身分証明書、名刺、定期券等を渡され、犯行当日は都内のホテルに泊まり、翌日午後三時埼玉県飯能市の「すかいらーく」に集合すること、逃走の際は丙と一緒に駅まで行くようにとの指示を受けた。
翌二一日、甲、丙、Gらと君ケ浜の駐車場に行き、A、Eと合流の上、午前一一時ころ、ワゴン車に乗って出発し、昼食後トレーニングウエアに着替え、Eの運転する車で甲、丙、丁、戊、Gと午後六時ころ本件犯行現場近くに到着し、丁がレポ役の乙とトランシーバーで交信し、戊が電話線の切断を行い、甲、丙、丁、Gと自分はヘルメットを着用して待機した上、駆け足で現場に行き、甲が丙に間違いないかを確認し、丙が間違いないと答えるや、甲が○○会長を仰向けに倒して馬乗りとなり、丙、Gも加わって動けないようにした上、丁、Gが鉄パイプ等で被害者を殴打し、さらに、丙が馬乗りとなって、ズボン、上着のポケット等を探り、自分は鞄を奪って甲に渡し、全員ワゴン車に乗って現場を離れ、逃走用のスーツに着替えて、順次下車して逃走した。
以上が、中核派革命軍に所属してから本件犯行に至るまでの経緯及び犯行状況についてのMの供述の概略である。
同人は、逮捕の約一週間後から供述を始めて以後は、自分自身の公判及びNの公判においても、右のとおり複雑な準備、訓練等の過程から実行に至るまで概ね一貫した供述を重ねており、右一連の供述は、全体として高い信用性を有するものと認められる。
右供述によれば、本件強盗傷人の犯行は、中核派革命軍による組織的犯行であって、その実行行為者は、Mを含む甲、丙、丁、Gの五名であると認められる。
三 ところで、Mは、右各供述を通じて、Nを除き、実行犯を含む本件の関係者らを前記のとおり甲、乙、丙、丁、戊及びA、B、C、D、E、F、G等の各符号を用いて供述している。検察官として本件捜査を担当し、Mの取調べに当たった証人Tは、第八回ないし第一一回公判調書において、Mは、Nを除く共犯者らについて氏名で特定することを拒否したため、右のような符号を用いて各人物を特定して記載したものであるが、Mを起訴した後の平成二年一月三〇日、共犯者を特定するため、Nに写真一〇枚を示して共犯者の有無を確認したところ、A、E及び丙の三名についてそれぞれ写真で特定したが、右丙として指摘した写真が当時△△といわれていた被告人の写真であった旨証言している。
検察官は、右T証言及び前記Mの供述により丙が宿泊したとされている旅館等のうち四か所から押収した宿帳等の記載と被告人自身が学生時代に作成した書面及び被告人の逮捕当時押収されたノート等の記載が同一人の筆跡であることを根拠として、右M供述で述べられている丙が被告人であることは疑いがない旨主張する。
第三 T証言中のM供述の証拠能力
一 そこで、まず、右T証人の、Mが一〇枚の写真のうち一枚を丙であると指摘した旨の証言の証拠能力について検討する。
Mは、平成元年一一月一〇日別件の偽造有印私文書行使の被疑事実で逮捕され、当初黙秘を続けていたものの同月一六日ころから、中核派革命軍に加わった後の活動、右偽造有印私文書行使の事実を始め自己が関与した自動車窃盗事件、ナンバープレート偽造事件、革マル派襲撃計画、浅草橋駅襲撃事件、そして本件○○会長襲撃事件について次々と供述を始め、本件についても、平成元年一二月四日から平成二年一月二四日までの間、前記のとおりの詳細な供述を行った多数の調書が作成されている。
これらの供述を始めた動機として、Mは「偽名を用いて就職するなど偽りの生活に苦痛を覚え始めていたところ、逮捕されたため、中核派を離脱する決意をし、革命軍に所属していた間に犯した犯行すべてについて話し、裁きを受けた上で新しい人生を歩みたいので、進んで供述してきた。」(検察官に対する平成元年一二月二六日付供述調書謄本)もので、「警察や検察官から追及されてしゃべったのではなく、これまでやってきたことを話して、自分なりの責任をとってやめようと思った。」(前記Mに対する強盗傷人、窃盗被告事件の第一回公判調書謄本)旨供述しているが、Nを除く共犯者らの関係者をいずれも符号で述べた理由については、「Nについては、自分のキャップであるから、名前も言わないと自分の行動を十分説明したことにはならない。」こと及び「Nは自分と同時に逮捕されたものであるから、氏名を出すのもやむを得ない。」が、その他の者については、「これまで同じに闘ってきた人であるから、本人がそのまま続けたいというのであれば、本人が続けるべきであると思い、他の人のことについては、名前はというかそういう特定できるような形では話さなかった。」旨供述している(前記Mに対する強盗傷人、窃盗被告事件の第一回公判調書謄本)。
ただ、Mは氏名による特定は拒否したものの、共犯者らの身体的特徴については、検察官に対する平成元年一二月四、五日付供述調書謄本において、Aは「現在(供述当時)年齢が四二歳位であり、身長約一六八センチ、体格は筋肉隆々としたガッチリした体型で、眼鏡をかけ、頭頂部の頭髪がやや薄いという特徴がある。」、Cは「現在の年齢が三五歳位であり、身長約一七二センチ、ガッチリとした体格で、眼鏡をかけた男」、Dは「現在の年齢が三五歳位で、やせ型の体格をしており、眼鏡をかけている。」、Eは「現在の年齢三五歳位で、身長が約一七五センチ、頬骨が張って、野球のホームベースのような形の顔をしたやせ型の人物で、眼鏡はかけていない。」、Fは「現在の年齢が三五、六歳位で、身長約一六五センチで、頬にしわがよる特徴があり、色は浅黒く、眼鏡をかけていない。」、Gは「現在の年齢三五、六歳位で、身長約一六五センチ、ガッチリした体格で眼鏡はかけておらず、手の甲等が毛深いとの印象を受けた人物」とそれぞれ供述している(いずれも検察官に対する平成元年一二月四、五日付供述調書謄本)上、T証人によると、時間的な余裕がなく調書にはしていないが、甲、丙、丁等についても、同様に特徴を聴取しており、丙については、年齢三五歳位、身長一六〇センチ位、小柄で眼鏡なしと供述したことが認められる。
Mに対しては、強盗傷人、窃盗で公訴を提起された後も、同人の承諾のもとに、T検事による任意の取調べが行われ、同年一月二三日には昭和六二年の革マル派襲撃計画につき、翌一月二四日には○○会長襲撃事件につき、それぞれ補充的な供述調書が作成されているが、右各調書では、各共犯者らについて、いずれも従前どおりの符号が用いられている。
これと並行して、Mを取り調べた警視庁公安部のK警部補及び前記T検事が、それぞれ写真を示して、共犯者の特定についてMを取調べている。
K証人は、その経緯について次のとおり供述している。
同年一月九日ころ、上司から、本件についての共犯者の捜査を命じられ、中核派の活動家約一〇〇名の写真帳をMに示し、「この中に知っている奴がいるか。いないかもしれないが、いたら教えてくれ。」と言うと、Mは右写真帳をめくっていたが、急にページが止まるとか、ページを飛ばすなど七名について不自然な反応があり、そのページを「何で飛ばしたんだ。」と追及すると、「やっぱり私は嘘つけないんですね。」といいながら、五名についてはその場で誰々であると話したこと、もっとも、これらはいずれも本件と関係のない他の事件の関係者であり、残りの者について、「九・二一の実行部隊の者はいるか。」と更に追及したところ、「この中に数名はいる。しかし、今は言えない。ここで言うと全部警察に加担したことになる。これからは、警察にも中核にも加担しない。だからいるとは言えるが、今は言えない。しかし、これだけ詳しく話しているからそちらの方で分からないのか。」と答え、調書の作成にも応じなかった。同月一六日、上司から「最終的に捜査の結果、この五名に絞られた。」として五枚の写真を渡された。右のうち二枚は、九日にMが反応を示したが、説明を拒否した者であり、この五枚の写真をMに示し、「我々の捜査の結果この五枚に絞られた。いないんならいない、いるならいると言ってくれ。」と尋ねたところ、Mは、顔色が変わり、泣きながら、「これがAさんです。私の言っていた身体の特徴にそのままでしょう。唇の薄いとこ、頬の出てるとこ、頭部の薄くなった感じ。この写真は眼鏡をかけていないが、間違いなくAさんです。」と供述し、さらに別の写真を見て、「これは丙さんです。初めて写真を見た時から分かっていました。しかし、あの時は言えませんでした。」と供述したが、調書の作成については、「それはできない。私は嘘は言っていないが、調書にすれば全部警察に加担したことになる。」と言うので、調書作成を断念し、これに代えて報告書を作成した。その後、雑談の中で、Mは、右五枚には含まれていなかったEについても特定した。
また、T証人は、平成二年一月下旬、上司から、Mから面割り供述をとるよう指示され、警察で特定したというA、E、丙の三枚の写真を入れて、中核派活動家の写真一〇枚を用意してもらい、同月三〇日Mに対し「警察で一部の者について面割りしているようだが、間違いないか。」と尋ねたところ、Mは少し考えた後「間違いない。」旨答えたので、右写真を示したところ、五番目の写真について「これがAです。」、三番目の写真について「これがEです。俳優の細川俊之に似ている。」、九番目の写真について「これが丙です。」と説明し、さらに一番目の写真について「これが他の班のキャップです。」と述べたが、調書にしていいかと尋ねたところ、「それはできない。仲間を裏切ることになるし、組織の報復も怖い。」ということであったので、調書の作成は断念し、取調状況報告書を作成した旨供述している。
弁護人は、右T及びKの各証言につき、Tは上司からわざわざ写真により共犯者の面割りをするようにとの指示を受けて取調べを行ったにもかかわらず、右の取調べの内容を録取した調書そのものが作成されていないのは不自然であること、Mがそれまで共犯者の特定について拒否していたにもかかわらず、この段階での取調べにおいて突然写真による特定に応じたことの理由が不明であること、Tによる取調べとKによる取調べとの関連及びKの取調べに関する同人らの供述には不自然、不合理な点が多いこと、さらに、他方では、M自身が自己及びNの公判並びに当裁判所の公判準備において、写真による面割りの事実を否定していることなどを指摘して、Mが写真で丙を特定したという事実があったとのT及びKの各証言はいずれも信用しがたく、右は両証人らの全くの捏造であると主張する。
右Kの証言は、一六日に写真を示した際Mの顔色が変わったとか、涙を流して供述し、自分も一緒に泣いた等の主観的あるいは誇張されたと思われる表現が少なくなく、また、例えば、上司から「九・二一の実行部隊はこの五人に絞られた。」と告げられただけで、その実質的な理由を述べていないなど、事件の性質上捜査の手法を明らかにしたくないといった姿勢や、共犯者の大半が未逮捕であることから必要な点以外については証言を避けようとする傾向がみられるものの、Mが抵抗感を抱きながらも最終的には写真による特定に協力し、かつ、同人が右特定後調書の作成には応じられないと強く拒否したことから、調書作成を行わず、これに代えて報告書を作成したことが認められ、その間の経緯に特に著しく不自然な点はないというべきである。また、T検事は右の経緯を受けて面割りに臨んだもので、この際に特段の説得がないことが不合理とはいえないし、取調べに示した写真については上司が用意したものであると述べるのみであるとか、Kの取調べの結果をどの程度認識していたかなどの点について、やや証言に明確を欠く点があり、また、Kによる面割りの行われた後に、なお、符号による検察官調書が作成されているという疑問はあるが、その取調べの経緯に特段の不自然な点もなく、調書作成行為そのものがなかったことも、Mが拒否したためであり、これに代えて取調状況報告書を作成したということも特に不合理とはいえない。
本件に関するMの供述経緯をみると、同人は、共犯者について氏名をあげて特定することには強い抵抗を示しているが、他方では、前記のとおり、各共犯者の役割のみならずその身体的特徴について供述するなど、ある程度での協力は捜査の当初から行っているところであり、これらの点からすると、Mは、一方ではこれまでの仲間を裏切ることに対する抵抗感と組織からの報復という恐怖から、各個人の特定は行いたくないという思いと、他方では、できるだけ真実を話したいという思いとの間で、自分なりの妥協点を見つけつつ供述していたことが窺われるのであって、両捜査官らが写真による面割りを行った時点での同人の対応も、調書の作成には応じないとの固い意思のもとに、いわば捜査の手掛かりとして写真での特定を行うことを一つの妥協点としたものと解されるのであって、それ以前の態度に比して大きな変化であるとはいえ、動機の不明な不自然な行為であるとはいえない。
T証人は、本件捜査の後、被告人が逮捕される半年以上も前の平成二年三月末に検察官を辞職し、以後弁護士として活動していたものであり、被告人の逮捕及び起訴の時点で捜査官らと意を通じて証拠を捏造するというような行為に出る動機も見当たらず、前述したところからすれば、Mによる写真での特定がなされたこと自体は否定しがたいというべきである。
なお、Mは、自身及びNの裁判における各公判において、他の共犯者を特定したことはない旨及び平成六年一二月一九日の公判準備期日において、写真を示されたことはあるけれども特定したことはない旨それぞれ供述しているが、Mが、いずれについても、傍聴人及び中核派構成員と認められる被告人の面前では特定したことを否定したいという心情にあったことも無理からぬところであると考えられ、これをもって、前記の写真による特定行為があったとの認定を覆すものとはいえない。
二 次に、弁護人は、<1>Mは単に宣誓を拒否しているだけであるから、刑事訴訟法三二一条にいう証言不能には当たらないこと、<2>検察官の取調べの結果は、刑訴法三二一条一項二号書面として証拠とすることができる旨規定されており、調書が作成されていない場合にまで、その取調べの結果を刑訴法三二四条が準用する同法三二一条一項三号により証拠とすることは法の予想していないところであること、<3>供述者の署名、指印のない供述調書は、刑訴法三二一条一項二号、三号のいずれによっても証拠能力がなく、これとの対比においても、立証に不可欠の供述について調書そのものが作成されていない本件において刑訴法三二四条を適用することは許されないこと、<4>刑訴法三二一条一項三号の特に信用すべき情況の下にされたという要件は厳格に解すべきところ、特に証言者が捜査機関である場合には単なる事実の報告者ではなく、訴追側としての先入観が入るおそれが高いこと、取り調べた結果を調書にしないということは、それ自体で信頼度の低い情報であり、また、原供述者が署名、指印を拒否し、あるいは調書の作成自体を拒否したということは、当該供述が裁判の資料となることを拒絶するということであって、原供述者自身がその供述の信用性を否定していることを意味するものであること、Mの供述はいわゆる共犯者の供述であり、虚偽の可能性が高いことなどを縷々主張し、Tに対し写真を示して「これが丙さんです。」と述べたというMの供述は特に信用すべき情況のもとにされたものとはいえず、T証言に含まれる前記Mの供述を刑訴法三二四条により準用される同法三二一条一項三号によって証拠とすることはできない旨主張する。
しかしながら、Mは第五回及び第六回公判期日に証人として召喚を受けたにもかかわらず、宣誓を拒否し、証言に応じなかったものであり、証言が得られないという点においては刑訴法三二一条一項各号の掲げる諸事由と異なるところはなく、同項にいう供述不能の場合に当たることは、すでに多数の判例によって承認されているところであって、この点に関する弁護人の主張は理由がない。
また、刑訴法三二一条一項二号は、検察官に対する供述調書について、一定の要件のもとに、伝聞法則の例外として証拠能力を認めることを規定するにとどまり、検察官による取調べの結果は、同号の要件を満たさなければおよそ証拠となしえないとの趣旨をもつものではない。刑訴法三二四条が準用する同法三二一条一項三号の文言には、捜査機関に対する供述を除外する趣旨の制限はなく、特に信用すべき情況のもとにされたと認められる場合には、同号により証拠能力を取得する場合があると解すべきである。
さらに、署名、指印を欠く供述調書が刑訴法三二一条一項二号、三号の書面としての証拠能力を有しないとされる場合があるのは、署名、指印を欠く供述調書については、その供述のなされたこと自体の正確性が担保されないため、書面としては、これらの条項により証拠能力を取得し得ないというにとどまり、その供述が、別に刑訴法三二四条により準用される同法三二一条一項三号の要件を満たす場合に、同号によって証拠能力を取得する場合があることも明らかである。
刑訴法三二四条によって準用される同法三二一条一項三号にいう「特に信用すべき情況」という要件について、慎重に解釈すべきことは弁護人の指摘するとおりであるが、同号は伝聞法則の一般的例外を定めたものであって、特に原供述のなされた状況に法律上の限定はなく、検察官、警察官等取調官に対する供述が一般的にこれに該当しないとか、共犯者の供述はこれに当たらないとかといった類型的な制約があるとはいえず、また、取調べの結果を供述調書にすることを拒否したことから、直ちに特に信用すべき場合に当たらないということもできない。
同号にいう特に信用すべき情況のもとにされたかどうかについては、当該供述のなされた際の状況、供述者の立場及び供述の相手方、供述の動機等供述のなされた際の諸状況を基盤とし、当該供述の内容をも考慮して、真実の供述のなされる蓋然性の高い情況と認められるかどうかによって判断すべきものと解される。前記のとおり、Mは自己が関与した犯行について、共犯者の役割を含めて、自発的に詳細な供述を重ねる一方、共犯者については、その身体的特徴等を供述しつつも、氏名で特定することについては、仲間を裏切ることになるとか、家族が報復を受ける恐れがある等の理由で、強い拒否の姿勢を示していたものであるが、公訴提起後の任意の取調べの過程で、まず警察官から捜査の結果共犯者が相当絞られたとの説明のもとに写真を示され、調書作成には応じないとの意思のもとに写真で面割りを行った後、さらにその結果を受けた検察官から写真を示され、調書の作成にはあくまで応じないとの意思で、写真による特定の限度で、検察官に対し「これが丙さんです。」と供述したものであって、各共犯者の識別を含め相当明確な記憶を有していたという記憶の程度、それまでの供述の自発性と真摯性、調書に作成されないということから、かえって恐怖心や仲間への配慮に縛られない状況にあったと認められること、その供述内容は示された写真を見て「これが丙さんです。」という簡単なものであって、その供述自体については誤認の余地が乏しいことなどが認められるのであって、右状況に照らせば、右Mの供述は、真実の供述のなされる相当高度の蓋然性がある情況のもとになされたものと認めることができる。
以上の検討によれば、T証人の「Mが写真を示して、『これが丙さんです。』と述べた。」旨の供述は刑訴法三二四条の準用する同法三二一条一項三号に該当する供述として証拠能力を有するものと認められる。
第四 T証言及びこれに含まれるM供述の信用性
そこで、右T証言に含まれるM供述の信用性について検討する。
前記のとおり、Mは、本件犯行に至る経緯及び犯行状況について詳細な供述を行い、共犯者を含む各関係者の役割として述べるところもほぼ一貫しており、これらの点につき、同人が概ね正確な記憶を有しており、その証言の信用性には高いものがあると認められる。もっとも、証拠を子細に検討すれば、Mの述べる各準備行為の日時、場所、あるいは宿泊者等については、種々変動があり、供述の食い違いや不正確な点が補充的な捜査によって順次整理されていった跡が窺われ、右供述内容が全てMの記憶のみの結果であると評価することはできない。ただ、Mの供述によれば、同人は丙と約一年以上もの間にわたり、二件の対人闘争計画について行動を共にしていることが認められるところであり、丙について、その記憶が不明確であるとは考えにくいところである。
しかし、右丙が被告人であるという点については、前記のとおりK警部補及びT検事の最終の取調べにおいて、写真により特定したのみであり、他の犯行状況に対する供述とは明らかに供述の程度が異なっており、これが特に信用すべき情況のもとでされたもので証拠能力を有するとしても、なお、その信用性については、慎重な検討を要するものと思われる。T検事によって示されMが特定したという写真は、被告人の正面及び側面からの被疑者写真であるが、Mの特定自体これが「丙さんです。」という簡単なものであって、その根拠等についても全く説明がなく、その確信の程度も明確であるとはいえない。
検察官は、前記のとおり、供述調書に応じないとの意思のもとでの供述であるからむしろこれを信用し得るとの前提で、Mが本件審理の過程で宣誓を拒否したのは、宣誓に応ずれば被告人が丙であることを証言せざるを得なくなることを恐れたためとしか解しようがなく、右証言拒否の事実自体被告人が丙であることを強く推認させるものであり、また、当裁判所の尋問調書で、被告人が「鉢の木」で一緒であった人物とよく似ている旨証言しているのは、実質的に被告人が丙であることを認めたものにほかならないと主張する。
Mは捜査段階での検察官に対する写真での特定の後、平成二年二月には自己の公判において、同年八月にはNの公判において、○○会長襲撃を含む自己の犯行について供述し、その後平成三年七月には本件の第五回及び第六回公判において、宣誓及び証言を拒否し、さらに平成六年一二月当裁判所の尋問においては、被告人が「鉢の木」で一緒であった人物とよく似ている旨証言しているが、右の宣誓及び証言の拒否は、本件に関する一切の証言を拒否したものであって、単に被告人と丙との同一性についての証言を拒否したものではなく、これをもって、同証人が被告人が丙であることを認めたものと推認することはできず、また、Mが上記のように供述態度を変遷している間には五年に及ぶ期間があり、その間に、同人は有罪判決を受けて服役し、その後出所して生活しているという環境の変化も認められ、右供述態度の変遷について、検察官のいうように、捜査段階のもののみが信用でき、その後のMの態度はすべて被告人が丙であるとの供述を回避するためのものであると一義的に解釈することはできない。
供述の信用性を判定するに当たっては、供述の具体性、一貫性及び当該供述のなされた際の情況等これまでM供述について指摘した点が重要な意味をもつことはいうまでもないが、何よりもそれが他の証拠によって裏付けられ、客観的な事実と符合しているかどうかという点の検討が不可欠である。
そこで、検察官が、M供述を裏付けるものとして主張する筆跡の同一性につき検討する。
第五 宿帳の記載について
一 検察官は、前記のMの供述に従い、同人が丙と宿泊したと供述している旅館等四か所から押収された宿帳等の当該宿泊日の記載が被告人の筆跡によるものである旨主張する。この点については、警視庁科学捜査研究所文書鑑定科主事小島直樹作成の鑑定書及び第二六回ないし第二九回公判調書中の証人小島直樹の供述調書(以下両者を併せて「小島鑑定」という。)、天野瑞明作成の鑑定書及び証人天野瑞明こと天野明の当公判廷における供述(以下「天野鑑定」という。)並びに大西芳雄作成の鑑定書及び証人大西芳雄の当公判廷における供述(以下「大西鑑定」という。)が証拠として取り調べられているのでこれらの鑑定の結果について検討する。
二 右鑑定の目的である資料は以下の四点である。
<1>「金正旅館」から押収した御芳名伺(平成四年押第八二八号の1)は、警察官が、平成元年一一月二八日、銚子市海鹿島町所在の同旅館から任意提出を受けて領置したものである。Mの同年一二月二〇日付及び同月二一日付各供述調書謄本では、「昭和六三年九月二〇日、甲、丙及びGと共に、西海鹿島駅付近の海岸沿いの金正旅館に行った。その後、A、E、丁及び戊も来て八人となり、全員で会議等をした後、五人位が宿泊した。」旨記載されているが、前記御芳名伺によると、昭和六三年九月二〇日の宿泊客として記載されているのは、「小坂徳蔵」ら五名の一組だけであり、かつ、右の「小坂徳蔵」の氏名は、後述する「銀砂屋」でも使用されていることからして、右宿帳の記載は、Mの供述するグループによってなされたものとの疑いが強いが、その具体的な記載者については、特定されていない。
<2>「銀砂屋」から押収した宿泊者名簿(同押号の2)は、Mの供述をもとに、警察官が特定した民宿「銀砂屋」から、平成元年一二月一〇日任意提出を受けて受領したものである。Mの同年一二月二〇日付供述調書謄本では「その夜(九月一〇日)は丙と二人で九十九里町の片貝海岸にある民宿で宿泊したのです。この民宿には、茶色の雑種犬が一頭いたことを覚えています。翌日も前夜と同じ片貝の民宿に丙と宿泊しました。」と記載されているが、右宿泊者名簿及びこれを押収した警察官の証言によれば、昭和六三年九月一〇日から一二日にかけて宿泊した男二人分のものとして「小坂徳蔵」名義の宿泊客の記載があり、前記金正旅館と同じ「小坂徳蔵」の氏名が用いられていることをも考慮すると、右記載がMの供述する宿泊に対応したものとの疑いが強く、かつ右記載はMの筆跡とは明らかに異なっている。
<3>「鉢の木」から押収した御芳名伺票(同押号の3)は、警察官が、平成元年一二月一五日同民宿の経営者から任意提出を受けて領置したものである。Mの平成二年一月二三日付供述調書では「昭和六二年一二月一五日、東京都奥多摩町の民宿『鉢の木』に宿をとりました。この民宿に宿泊したのは、私、A、丙、Yの四人です。(翌日)また、民宿『鉢の木』へ戻って宿泊し、私、A、丙、Y、Eらが参加して図上訓練を行いました。」との記載があるが、前記警察官の証言によると、任意提出を受けた際、予約受付カレンダー等を調査した結果、昭和六二年一二月中に大人四人が二泊したのは、同月一五日に四人、翌一六日に五人で宿泊した「川口則雄」のグループのみであり、かつ、警察官が右の川口の電話番号として記載されている番号に電話をかけたところ、使用されていない番号であったことなどから、右の記載がMの供述する一行であったとの疑いが強いが、一行のうち誰が右御芳名伺票に記入したかについては全く証拠がない。
<4>「よねや旅館」から押収した宿帳(同押号の4)は、警察官が、平成元年一二月二五日、同旅館の主人の妻から任意提出を受けて領置したものである。Mの平成二年一月二三日付供述調書では「『鉢の木』に宿泊した後、横浜市内の横浜線中山駅付近の『よねや旅館』へ移動し、私、A及び丙が三泊ないし四泊したが、三人以外にEも何泊か宿泊した記憶もある。」旨の記載があるが、右宿帳によると、昭和六二年一二月一八日には「浅井重夫」ほか三名が宿泊したとの記載があり、これがMの供述する宿泊に対応するものとの疑いが強いが、その具体的記載者は不明である。
これらの各資料と対照する資料として、<5>休学願(同押号の6)及び<6>学生指導要録(同押号の5)は、いずれも平成二年一〇月三日、警察官が、被告人の在籍していた東京学芸大学学生部次長から任意提出を受けて領置したもので、被告人自身自らこれを記入したことを認めている。<7>ノート一冊(同押号の7)及び<8>紙片一枚(同押号の8)は、平成二年九月二七日中核派アジトと目される静岡市内のマンションで被告人を逮捕した際、警察官が同室内で封筒に入っているのを発見押収したものであり、同室には逮捕当時被告人のみが在室していたこと、右ノートについてはその一部から被告人の左手小指の遺留指紋が発見されており、被告人自身が使用していたものであるとの疑いが濃厚であるが、必ずしも断定はしがたく、また、紙片については、ノートと同じ封筒に入っていたというのみであり、その形状からしても何人が記載したものであるかは不明である。
<9>ないし<11>封筒三通(同押号の10ないし12)は、いずれも平成四年一月に被告人から弁護人宛に発送されたものであり、また、<12>更新に対する意見陳述(同押号の13)は同年六月当裁判所に提出するための草稿として作成されたもので、いずれも被告人自身が記載したものと認められる。さらに、<13>新聞講読許可願(一九九〇年一一月一日付)、<14>意見陳述(一九九一年四月一二日付)、<15>更新に際しての意見陳述(一九九一年四月一二日付)及び<16>接見禁止解除願(一九九一年九月二〇日付)は、平成二年から平成四年までの間に被告人から当裁判所に提出されたものであり、これらの各書面は、いずれも被告人自身が記載したものと認められる。
三 小島鑑定は、平成二年一〇月八日捜査機関からの嘱託に基づいて行われたもので、その鑑定事項は、「1 休学願、学生指導要録、ノート、紙片は同一人の筆跡か否か。2 休学願、学生指導要録、ノート、紙片と『金正旅館』の御芳名伺の『小坂徳蔵』名義の記載は同一人の筆跡か否か。3 休学願、学生指導要録、ノート、紙片と『銀砂屋』の宿泊者名簿の『小坂徳蔵』名義の記載は同一人の筆跡か否か。4 休学願、学生指導要録、ノート、紙片と『鉢の木』の御芳名伺票の『川口則雄』名義の記載は同一人の筆跡か否か。5 休学願、学生指導要録、ノート、紙片と『よねや旅館』の宿帳の『浅井重夫』名義の記載は同一人の筆跡か否か。」というものであり、いずれの鑑定事項に関しても、「同一人の筆跡と推定する。」と鑑定されている。
小島鑑定の手法は、文字について、希少性と称するその文字固有の特徴を指標として、鑑定資料中の同一文字に同一の希少性のある特徴が出現しているかどうかを点検し、その共通点が少なくとも三ないし四文字種以上にある場合には、「同一人の筆跡と推定する。」というものであり、希少性というのは、概ね一般の使用頻度に照らし、一〇パーセント以下のものをいうとされている。
右の方法により、鑑定事項1については、<5>(休学願)、<6>(学生指導要録)、<7>(ノート)の「猛」、「雄」、「市」、<5>、<7>の「身」、<6>、<7>の「創」、「意」、「新」、「員」、「社」、<7>、<8>(紙片)の「権」、「階」、「級」、「発」、「機」の各文字の一部の構成及び形態に類似した特徴が認められ、それに対して顕著な異質の特徴は認められないので、右<5>ないし<8>の各資料は同一人の筆跡によるものと推定し、鑑定事項2以下で、これらの対照資料全体を<1>ないし<4>の各資料と対比して検討している。
鑑定事項2については、<5>ないし<8>と<1>(「金正旅館」の御芳名伺)に共通する「市」、「員」、「社」、「徳」、「会」の各文字の一部の構成及び形態に類似した特徴が認められ、それに対して顕著な異質の特徴は認められない。
鑑定事項3については、<5>ないし<8>と<2>(「銀砂屋」の宿泊者名簿)に共通する「市」、「員」、「社」、「徳」、「会」の各文字の一部の構成及び形態に類似した特徴が認められ、それに対して顕著な異質の特徴は認められない。
鑑定事項4については、<5>ないし<8>と<3>(「鉢の木」の御芳名伺票)に共通する「雄」、「市」、「員」、「社」、「会」、「則」、「葉」の各文字の一部の構成及び形態に類似した特徴が認められ、それに対して顕著な異質の特徴は認められない。
鑑定事項5については、<5>ないし<8>と<4>(「よねや旅館」の宿帳)に共通する「市」、「新」、「社」、「機」、「会」、「重」、「名」、「他」、「式」、「精」、「進」の各文字の一部の構成及び形態に類似した特徴が認められ、それに対して顕著な異質の特徴は認められない。
以上から、<5>ないし<8>の各資料と<1>ないし<4>の各資料とは、それぞれ「同一人の筆跡と推定する。」としている。
小島鑑定人は、昭和四八年警視庁科学捜査研究所文書鑑定科に勤務を始めて以来、一貫して筆跡鑑定に従事してきたもので、これまで極めて多数の筆跡鑑定の経験を有し、その手法も経験上理解しやすい合理性を有しているものと認められ、また、各資料について類似性があるとして指摘する点も概ね首肯し得るところである。
しかしながら、同鑑定の出発点ともいうべき、希少性の判定基準自体は、経験的、感覚的なものであり、同鑑定人自身は、出現率一〇パーセント以下のものを希少性ありとする旨を説明しているが、各文字についての特徴点として指摘する点が全体の一〇パーセント以下であると判断する根拠としては、統計的データはもとより、一般的にその指標とするという筆跡標本も提示されておらず、同鑑定人自身の経験的判断以上のものは見当たらない。そのため、例えば、各宿帳及び対照資料にみられる「会」の第三画以下の構成を希少性のある特徴として挙げながら、ペン字事典でも同様の書き方をしている旨指摘され、結局それほど希少性のある特徴ではなく、その出現率は一〇ないし一五パーセントである旨供述するなど、資料の評価の面において不安定な面があることは否定できない。また、逆に各鑑定資料間に顕著な異質の特徴がないとする点についても、例えば資料<5>休学願の「猛」の第一画が第二画の上に突き出しておらず、反対に資料<7>ではこれが突き出ているとの点は変動の範囲内であって、希少性の問題ではないとするが、その出現率も不明であり、結局は経験に基づく感覚の域を出ないというほかはない。
また、同鑑定人は、前記のとおり、希少性をもつ特徴が共通する三ないし四文字種以上に認められれば、同一人の筆跡と推定するとし、対象資料の類似点の抽出作業を行っているが、そのため、資料相互間に同一の共通文字が複数ある場合には、最も類似性の高いものを取り出して比較し、例えば、資料<1>の中の「市」について、資料<5>の「市」と同様、第四画転折部が角張っていることが特徴とされているが、資料<2>ないし<4>、<6>及び<7>では、いずれも丸くなっている点については変動幅の範囲内にあるとされ、また、「宅」の最終画が資料<5>及び<6>においては跳ねていないのに対し、資料<1>の御芳名伺では跳ねているという比較的顕著な差異については、そもそも検討対象とされておらず、異質な特徴の有無についての検討、吟味が必ずしも十分とはいい得ない。
加えて、本鑑定では、対象資料の文字の少なさ及び対象とする資料の作成年代が相当長期間に及んでいるということも看過できない。前記のとおり、本鑑定事項1が、まず対象資料の一体性を確保するため、被告人の若年時の資料二点と逮捕時の資料二点との同一性に関するものであり、これら資料相互間では実に二〇年もの開きがある上、このようにして対照資料の同一性をまず推認した上で、これらの資料全体と鑑定の目的である資料(<1>ないし<4>)との同一性を判定しているもので、いわば文字によっては二重の推論を行うということになっている。
小島鑑定人自身、形態の類似性を基礎として筆跡の同一性を判定するに当たり、筆記の主体が限定されている中で特定するような場合を除き、このような限定のない一般的な筆跡自体を対比しての鑑定では、最も確度が高いと判断した場合であっても「同一人によるものと推定する。」という以上には特定しがたい旨述べているところであるが、このような点を考慮すると、同鑑定の結果、<1>ないし<4>の各資料は、被告人が記載したものと認められる対照資料と部分的に相当程度の類似性はあるが、なお、これをもって同一人の記載であるとまで断ずることはできないというほかはない。
四 天野鑑定は、弁護人保持清の依頼に基づいて行われたもので、「甲類書類(<1>ないし<4>)の筆跡と乙氏執筆による筆跡(<9>ないし<12>)は同一人による筆跡であるか否か。」という鑑定事項に対し、「別人による筆跡である。」としている。
その鑑定手法は、対照する文字の形態、送筆、筆圧、その他の四つの観点から相互の類似性を比較するというものである。
右の手法により、まず、各鑑定資料の文字結構の形態的な状況をみると、甲類筆跡はおおよそ「縦長右肩上型」であるのに対し、乙氏筆跡は「縦長垂平型」を基調としながらも、「右肩上型」や「左肩上型」等も混在していることが認められる。
次に、送筆、運筆等に関する事項(流れ)を観察すると、甲類筆跡は、時に画が連綿状態となることもあるが、基調としては一字一字切り離して比較的各画を大切にしていること、また筆速が比較的ゆっくりとしていること、転折部は多くの場合角勢的であること、起筆部及び終筆部は自然な筆裁きの状態であること、「機」の字のような「たすき」の画等の場合には上部に向かって跳ねる場合もあること等の点が観察されるのに対し、乙氏筆跡は、筆速はごく普通であること、甲類筆跡以上に一つ一つ区切りをつけており、連綿の状態になることもないこと、転折部が曲勢的であること、起筆部はごく自然であること、終筆部は、自然な状態で筆先を抜く場合よりも、止める状態で収筆する場合が多いことなどの点が観察される。
筆圧の点は、甲類筆跡は、およそ一八〇グラムないし二〇〇グラム程度と推定されるのに対し、乙氏筆跡は、およそ一四〇グラム程度を中心としていると推定される。
さらに、各資料間に共通する文字について検討すると、類似する点も相違する点も見受けられるが、その類似点は、ほとんどが図形的にみて類似しているにすぎず、それらの点は決定的な同一のための条件とはなり得ない。
結局文字結構の形態や送筆等が明らかに相違することからすれば、別人の筆跡であると認められるというものである。
天野鑑定人は、大学法経学部を卒業後、独学で筆跡鑑定について勉強し、これまで、数十件について筆跡の鑑定を行った経歴を有するというが、その手法は前記のとおりであって、筆跡鑑定としてはかなり特異なものと思われ、各文字の形態上の類似点および相違点を並列した上で、類似点についてはそのほとんどが図形的にみて類似しているだけであり、両者の文字結構の決定的な同一のための条件とはなり得ないと結論しているが、右のように結論することの理由は明確ではなく、結局両者を異筆と判断する主要な根拠を、より漠然とした「縦長右肩上型」か「縦長垂平型」かという全体的な形態の差異と両者の筆圧及び送筆の差異に求めているもので、十分な説得力のあるものとはいいがたい。加えて、右鑑定においては、まず四種の宿帳の筆跡を甲類として一体のものとみなしており、本鑑定の目的からして著しく相当性を欠いた前提に立っている上、乙類資料は、いずれも本裁判の開始後被告人が拘置所内で作成したもので、宿帳の記載とはそもそも全く異なる状況のもとに記載されたものであって、両者の筆速及び筆圧等を単純に対比するのは必ずしも相当とはいえないという疑問もある。右鑑定の結果は採用しがたいというほかない。
五 大西鑑定は、平成六年八月一日、当裁判所から鑑定を命ぜられて行われたもので、その鑑定事項は、「1 学生指導要録、休学願、新聞講読許可願、意見陳述、更新に際しての意見陳述、接見禁止解除願とノートの各筆跡は同一人の筆跡か否か。2 (1)学生指導要録、休学願、新聞講読許可願、意見陳述、更新に際しての意見陳述、接見禁止解除願、(2)ノートの各筆跡と、『金正旅館』の御芳名伺、『銀砂屋』の宿泊者名簿、『鉢の木』の御芳名伺票、『よねや旅館』の宿帳の各筆跡は、それぞれ同一人の筆跡か否か。」というものであり、大西鑑定は、いずれの鑑定事項に関しても、「同一人の筆跡である。」と鑑定している。
大西鑑定の基本的手法は、鑑定資料の間に年代的に相当の隔たりのあることを考慮し、各文字の結体、字画線、縦線、斜線、曲線、転折部等の構成要素及び筆順等について固有の筆癖を把握し、その固有の筆癖が現れているかどうかをみるというものと解される。
まず、<5>休学願、<6>学生指導要録、<13>新聞講読許可願、<14>意見陳述、<15>更新に際しての意見陳述及び<16>接見禁止解除願から、筆跡の特色を抽出すると、各文字の結体が縦長、四角、偏平と不統一であること、各字画線は、直線的筆致を用い、横線を右上がりと水平の二線の筆法を混用し、左右に下ろす斜線は、直線を多用していること、「心」の部分を、第二画の転折からの横線の終筆で加圧して止め、上方に跳ね上げず、第四画の点画線を横線の終筆か内側に収めており、第三、四画の点画線を縦に短く並行した形に収めていること、「何」「奪」「付」「近」「隹」その他の文字で、縦線が横線の中央で交差せず、横線の右寄りの位置で交差していること、「会」の第三画の方が第四画よりも長いか同じに書くという誤字を書いていること等の特色がみられる。
ノートを検討すると、各文字の結体、点画線及び字画線の筆法、そして「木」、「隹」、「心」、「会」の各部分に前記の各資料の筆跡と共通する特色が現れていることから、同筆であるとの結論に達した。
その上で、<1>「金正旅館」の御芳名伺には、点画線について右下におろす斜線と水平の横線の二様を用いている上、算用数字の「2」、「3」、横線と縦線の収め方、「田」、「心」、「会」等に被告人の筆跡と共通する特徴があり、<2>「銀砂屋」の宿泊者名簿には、点画線について、前同様の特徴がある上、横線と縦線の収め方、「田」、「心」、「会」等に被告人の筆跡と共通する特徴があり、<3>「鉢の木」の御芳名伺票には、「2」、「3」、「木」、「田」、「心」、「会」、「隹」の部分等が被告人の筆跡の特色と共通しており、<4>「よねや旅館」の宿帳には、点画線について、前同様の特徴がある上、横線と縦線の収め方、「田」、「心」、「会」等に被告人の筆跡と共通する特徴があり、いずれも同筆であるとの結論に達したというものである。
大西鑑定は、各文字の構成要素について形態上の類似性を取り上げて評価しようとするものであり、その限度では、小島鑑定と同様の手法に立つものと思われ、大西鑑定が各資料の共通の特徴として指摘する点は概ね認められるところである。しかし、その根底には小島鑑定に対すると同じ疑問があることはいうまでもない上、大西鑑定においては、希少性という考えは必ずしも必要がないとしているが、その特徴が多くの人に共通にみられるものであれば、必ずしも両者が同一人によるものであるとは断定できないと思われ、現に同鑑定が同一人によるものであることの大きな根拠としている「田」の字の第三画と第四画の筆順の誤りや「会」の字の第三画が第四画より長いことなどの点は、いずれも相当の割合でみられる誤りと考えられ、希少性を考慮する必要がないとの説明は納得しがたいところである。また、資料<2>にある「3」の最終部分は左上に跳ね上げ、資料<5>及び<6>の左下に下ろす特色とは明らかに相違しているが、このような相違点についても何らの説明もないなど、相違点についての検討は十分になされているとはいいがたい。さらに、同鑑定人は、鑑定評価の基準として「同筆であるか異筆であるかのいずれかであり、類似性が八〇パーセント以上あれば同筆であり、違っている部分が八〇パーセント以上であれば異筆である。」とするが、その数値的な根拠及び中間的領域の取扱も不明であり、その妥当性は疑問である。
第六 結論
本件は、千葉県土地収用委員会会長○○に対する強盗傷人という重大な事件であり、事件発生後一年二か月を経過したとはいえ、実行犯の一人としてMが逮捕され、同人から、右が中核派革命軍による組織的犯行であるとして、事前の準備、訓練、打合せから実行行為、逃走に至るまでの詳細な供述がなされるに至ったもので、事案の重大性に照らせば、これら一連の事実経緯について相当綿密な捜査がなされたことは当然であり、T証人の証言によれば、これらの裏付け捜査により、宿泊、会合を始め相当数の場所について逐一確認作業が行われ、また、Kの「捜査の結果この五人に絞られた。」旨の供述、さらには前記宿帳等を押収した警察官らの宿泊者等の確認作業を行った旨の供述等からもその一端が窺われるところである。
しかし、それにもかかわらず、前記の四か所からの宿帳等が提出されたほかは、被告人が丙であることを窺わせる証拠は全く提出されていない。
丙が直接関与したとされる準備行為だけでも、<1>昭和六二年一二月一五日ころ、Nと二人で河辺駅近くの喫茶店「ピア」で丙と会い、その後丙と二人でトレーニングウエアと靴を買い、当日はA、丙、Yと四名で前記民宿「鉢の木」に宿泊し、<2>同月一六日ころ、近くの愛宕神社境内でA、E、X、Y、丙、丁と共に七名で革マル派構成員の襲撃訓練を行い、当日も「鉢の木」に宿泊して図上演習を行ったこと、<3>同月一七日ころから横浜線中山駅付近の「よねや旅館」にA、丙(及びEも宿泊した可能性がある)と共に三、四泊したこと、<4>その後、丙と二人で生麦付近の旅館で一泊したこと、<5>その翌日、丙と青葉台付近で、帽子、手袋、サングラス等を購入し、その後Aらと合流し、七名で港北ニュータウンの造成地の中で一泊したこと、<6>同月末ころ、上溝駅付近の喫茶店「リッチ館」で、丙と共にAと会い、任務解除を告げられたこと、<7>昭和六三年八月二二日ころ、君ケ浜キャンプ場にA、F、丙ほか女性も含めて一、二泊したこと、<8>同月二四日ころ、女性、丙と共に小松海岸に移動し、Aらと五名くらいで海岸近くの民宿「ひらはま荘」に宿泊したこと、<9>同年九月一日、千葉県白子町の白子海岸で乙、女性のほか丙が合流し、テニス合宿の名目で長生村の民宿「小松荘」に宿泊し、その際丙と女性はテニスをしており、夜は乙の主催で○○会長襲撃の計画を話し合ったこと、<10>同月五日、茂原市内でA、G、丙と会い、大原町の民宿に宿泊したこと、<11>同月八日、千葉市内で○○会長の動静観察後丙が迎えに来て観察打ち切りを伝えたこと、<12>同月九日、丙と茂原市内に移動し、喫茶店「ココス」で甲らと合流し、女性を含め七名で勝浦付近の民宿に宿泊し、同夜作戦会議を行ったこと、<13>同月一〇日、甲、丙と九十九里の海岸まで行き、その後丙と二人で片貝の民宿「銀砂屋」に宿泊したこと、<14>同月一一日、丙と東金に行き、各別にレストランの調査等を行い、再度丙と合流して前記「銀砂屋」に宿泊したこと、<15>同月一二日、丙と九十九里の喫茶店に行き、甲と出会い、現場訓練をするのに使うホテルを探すよう指示を受け、丙と波崎町の民宿に宿泊したこと、<16>同月一三日、丙と鹿島町に移動し、各別にホテルの調査を行い、夕方丙と合流して、鹿島町内の旅館「富士屋」に宿泊したこと、<17>同月一四日、丙と潮来町に移動し、スーパー「カスミストア」でA、甲と会い、ここで丙と別れたこと、<18>同月一五日、潮来の簡易保険保養センターに甲、丙、丁、Gらと宿泊し、同夜甲を中心として○○会長襲撃の作戦計画を打ち合わせたこと、<19>同月一六日、A、甲、丙、丁、G、戊らと茨城県大野村の海岸に行き、十数回にわたり攻撃訓練を行い、同夜は再度潮来の簡易保険保養センターに宿泊したこと、<20>同月一七日、戊と神栖町でスーツ等を買った後、銚子市内に行き、外川漁協近くの民宿「文治」に丙を含む五、六名で宿泊したこと、<21>同月一八日、A、丙、戊らと君ケ浜近くの松林で攻撃訓練を行い、同夜はA、甲、丙、丁、Gらと前記「文治」に宿泊し、打合せを行ったこと、<22>同月一九日、丙、Gと銚子市内に行き、波崎町の民宿「魚忠」に宿泊したこと、<23>同月二〇日、丙、Gと銚子市内に行き、甲と合流した上、スーツに着替え、西海鹿島駅付近の「金正旅館」に行き、ここにA、E、丁、戊も合流し、Aの指揮で最後の会議を行い、同所に宿泊したこと、<24>同月二一日、甲、丙、A、E、Gらと君ケ浜の駐車場からワゴン車に乗って出発し、○○会長襲撃に向かったことがいずれも供述されており、丙と共に宿泊したとされている旅館、民宿等の一般施設だけでも、一四か所にも及んでいる。しかしながら、これらのうちから被告人の宿泊を裏付ける直接的な証拠は全く発見されておらず、わずかに前記四か所「鉢の木」「よねや旅館」「銀砂屋」「金正旅館」に残る宿帳等の筆跡が提出されているのみである。Mの供述が具体的であるにもかかわらず、共犯者丙が被告人であるとの点についての裏付けとなる証拠は著しく乏しいというほかはない。
被告人は、本件犯行につき、全く関与していないと供述するが、自己が中核派革命軍の一員であることは、被告人自身も特に争わず、その公判廷における供述に照らせば、Mが関係者の一人として指摘するNを同志と呼び、本件犯行の背景をなすと認められる成田闘争の正当性を主張するなど、本件犯行の実行者と心情において同調するものがあると窺われ、また、自己にアリバイがあると主張しつつもその具体的な内容を提示しないなど、公判廷での言動を通じても、被告人が本件犯行に関与したのではないかとの疑いがないわけではない。しかし、前述したとおりの証拠関係に照らせば、Mの供述にある共犯者丙が被告人であると断定するには合理的な疑いが残るというほかはない。結局本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰し、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 竹崎博允 裁判官 川本清巌 裁判官 松本圭史)